《ルートの説明》

常総市の主だった将門史跡は大体見て来たはずでしたが、実際は、数回足を運んだくらいでは見切れないくらい多くの

史跡があるのです。将門公恐るべし。そんなわけで今回は、常総市で取りこぼしていた史跡を巡ってきました。

 1.下総国亭跡(240317で一度訪れている。)

 2.長塚節生家(将門と関係ないが、途中なので・・)

 3.常羽御厨兵馬調教の馬場跡。

 4.蔵持建長銘板碑(平将門公赦免供養之碑)

 5.六所塚古墳(将門の父・平良持の墓という説あり。)

戸田井橋からショートカットルートで水神岬公園近くに出ます。この時期。小貝川の水量も多く、桜

咲く水神岬の周りも水面で、しっかり岬の体をなしていました。

 

伊奈橋で右岸に渡り、大和橋に近づいた地点です。前方に桜並木あり。ここで土手を下り、近接して

いる国道294号を渡り、諏訪神社通りで鬼怒川の八間堀水門に向かいます。距離僅か1.5Km。

 

八間堀川の橋の上から八間堀水門を撮影。あの先は鬼怒川です。

 

途中、土手下で、敷地いっぱいに芝桜を植えて頑張っているお宅がありました。GJ!

 

鬼怒川の雰囲気の分かる写真。画面中央は筑波山。サイクリングロードは舗装が良く、快適。

関東鉄道が近くを通っているせいか、人家や工場が途切れることは無く、僻遠の地を走ってい

る隔絶感は、あまりありません。

 

筑波山と豊田城。ズームレンズの望遠側で撮影。

 

さて、240317で宇都宮まで行った際に立寄った下総国亭跡です。前回と違うのは、ぼんやりでは

ありますが、筑波山が写っていること。ここは将門の父・平良持が、下総開拓の府として国庁を置

いた所です。

 

国亭跡から道なりで長塚節生家に来ます。平日で中の見学は出来ませんが、立派な屋敷です。豪農

の息子であったから詩歌にかまける余裕があったのでしょう。30代で亡くなられたのは、お気の毒な事

でした。

 

門前から母屋の一角を撮ってみました。今は住む人も無く、いずれ保存をどうするのかが議論

されるのでしょう。

 

常羽御厨(いくはのみうまや)兵馬調教の馬場跡に着きました。最初に訪れた下総国亭跡と同じく、

石碑が一本立っているだけです。ちなみに、このあたりの地名は「馬場」です。平良持と将門の父

子二代で管理した牧場でした。

 

石碑の背後の畑を撮ってみました。牧場であった頃を偲ぶよすがになったでしょうか?

   常羽(いくは)の野 双輪の騎馬で 駆け抜けて 遥かに偲ぶ 将門の夢 

 

桜の下の蔵持建長銘板碑(平将門公赦免供養之碑)に着きました。これらは建長5年から7年

(1253-1255)に建てられました。時の鎌倉幕府第五代執権・北条時頼が、将門公の祭祀がき

ちんと行われていないと知り、自ら執奏して勅免を得て、下総守護の千葉氏に建立を命じたも

のです。

 

鎌倉幕府は将門の怨霊を恐れていたのでしょうか? これらの碑は、当初、鬼怒川右岸の神小女

(みこめ)字引手山にありました。「みこめ」とは「御子埋」であり、一族の墓の地を称したと伝えられ

ています。

 

これら引手山の板碑ですが、その後の洪水で埋もれ、昭和5年の河川改修で地中から発見され、現在地に

移設されました。なお、板碑の一つは、石下大橋近くの西福寺に移され、別名「炎石」と呼ばれています。

240229参照) 地中から甦ったこれら板碑は、きっと大きなパワーを秘めているのでしょう。

 

画面左の小山が六所塚古墳(伝平良持墓)。その先に鬼怒川の土手が見えています。

 

古墳は前方後円墳で全長70m。西側に説明看板があります。もともと、この辺りは85基もの古墳が

あった地域で、その中で最大のものが、この六所塚です。以前は御所塚と呼ばれ、いろいろ諸説ある

ようですが、良持公の時代に、さすがに前方後円墳は造らないでしょう。

 

南側から撮った六所塚。満開の桜は、埋葬された方への良い供養でしょう。